第五六代清和天皇、貞観年間(八五九~八七七)の草創といわれ、近隣八カ村の総鎮守でありました。「延喜式神名帳」記載の高井郡六社の内、「小内神社」は当社であることは、神祇志料・神社覈録・大日本史(神祇志)・信濃地名考・大日本地名辭書等の記載からもあきらかであります。
庄(小)内八幡神社は、高梨氏が支配領を北に伸ばしたことに伴い片山社家も、くぬぎ原荘 (小布施町)から移って参りました。「神社明細帳」によれば、川中島の合戦の最中、永禄四年(一五六一)社殿が戦火にかかり、烏有に帰しました。合戦後に高梨氏から社領の寄進を受けましたが、その後の領地替えで庇護を受けることが出来なくなりました。寛文五年(一六六五)飯山藩主松平忠倶は、小内八幡神社を再建し、馬市の開催も許可をしました。九月の例祭を挟んで二週間開催された馬市は日市も併せて開かれ、木曾の漆器類も見られました。県外からも多く集まり、時の田中角栄首相も馬子として参った記録も残ります。
本殿は、桁行319センチ 梁間210セ ンチ 向拝418センチの三間社流造で、江 戸時代前期の建築である。母屋は円柱で、縁 長押・内法長押・頭貫・台輪をつけている。 正面3間に黒漆塗の両開きの板唐戸を取り付 け、両側と背面の二方は板壁とし、白く塗彩 した上に、猿・兎・菊・菖蒲の絵を描いてい るが剥落がはげしい。 組物は出三ツ斗で中 備には本蟇股があって松・桃・蓮の彫刻があ る。軒は二軒繁垂木である。向拝柱は角柱の 面取りで、頭貫を通し、組物は出三ツ斗で中 備には本蟇股をおき彫刻は牡丹と唐獅子であ る。屋根は板葺きで、棟の両側に鬼板をつけ ている。 創立年代は不詳であるが延喜式内 社に比定され、 本殿の立地する丘は由緒が あって旧石器時代以降の一人複合遺跡である。 飯山藩主松平忠倶が寛文5年(1665)に造営 した。
上述の如くすぐれた建築様式をもつ本殿は、 領主や庶民の尊崇をあつめ参道は長く、境内 は広く、しかも社叢はうっそうと茂るなかに 鎮座している。戦前の社格は郷社であった。